ホーム > 武者小路千家 官休庵について

千家と官休庵の歴史

千利休の孫、元伯宗旦(げんぱくそうたん)には四人の男子がありましたが、長男閑翁宗拙(かんおうそうせつ)は故あって家を出たため、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)がそれぞれ、官休庵(かんきゅうあん)、不審菴(ふしんあん)、今日庵(こんにちあん)として初祖利休以来の道統を継ぎました。
不審菴は表千家、今日庵は裏千家、官休庵はその所在地名から武者小路千家(むしゃこうじせんけ)と通称され、現在に至ります。武者小路千家の流祖、一翁宗守は兄宗拙と共に宗旦先妻の子であり、一時は兄同様父の下より離れ、吉岡甚右衛門(よしおかじんうえもん)と名乗り塗師を業(なりわい)としました。やがて千家の兄弟達の勧めでその技を初代中村宗哲に譲り、千家に復し、現在の地に茶室「官休庵」を建て、茶人としての道を歩み始めました。一翁ははじめ陽明家(ようめいけ)(近衞家(このえけ))に、そののち讃岐高松藩の茶道指南の地位にもあり、広くその名を知られる活躍を続けました。
晩年は武者小路の現在地に悠々自適、茶三昧の生活を送ったと伝えられます。武者小路千家では、一翁以降も歴代家元は讃岐高松藩の茶道指南をつとめ、一指斎(いっしさい)の代にまで及びました。

千利休画像 長谷川等伯筆千利休画像 長谷川等伯筆
「官休庵」名について
茶室「官休庵」にかかる元伯宗旦筆「官休」の扁額茶室「官休庵」にかかる
元伯宗旦筆「官休」の扁額
「官休庵」の名は、流祖一翁が父宗旦と相談して茶室を造った時に、父からつけて貰った名と伝えられています。
その意味は判然としませんが、安永三年(1774)、一翁の百年忌の時に大徳寺第三百九十世眞巌宗乗(しんがんそうじょう)和尚により書かれた頌には、「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」(茶に専念するために官〔茶道指南〕を辞めたのであろう)と解釈されています。

三千家系譜

三千家系譜
「宗守」名について

当家の「宗守」の名は、一翁の参禅の師、大徳寺第百八十五世玉舟宗和尚の命名で、以後歴代当主はこの名を襲名する慣わしになっています。一翁以来四百年の間、絶えることなく確かに茶聖利休居士の道統と血統を伝え、当代の不徹斎に至ります。また、その折同時に示された「宗屋」の名は代々後嗣に継がれ、「宗安」は隠居後の号となっています。

一翁宗守画像一翁宗守画像

武者小路千家 歴代家元について

四代 似休斎一翁(じきゅうさいいちおう)
父宗旦の意を受け、千家を離れていましたが、後に千家の兄弟の勧めで武者小路千家を新たにたてました。一翁が後に建立して武者小路千家の中心に据えた官休庵の号の由来は、古来諸説にありますが、一翁が高松の松平侯の茶頭としての仕事を引退し、官をやめた侘人の庵室といった意味と考えられています。
また、似休斎の号が示すように、利休を慕い、利休を追求した一翁の姿がしのばれます。
五代 文叔(ぶんしゅく)
比較的地味な人ですが、近衛予楽院の茶杓だんすや利休の茶杓、花入、茶器などに多くの極書きを加えていることなどから、文叔が茶道具の鑑識にすぐれていたとみることができます。
六代 静々斎真伯(せいせいさいしんぱく)
芸術家肌の人物であったらしく、唐様の文字を書くことができた人でした。唐様文字は、当時中国から渡来の新書体として新しい教養を象徴する明朝の書体でした。真伯は唐様文字で一行物もしたため、その優雅な筆致を残しています。また、手造はたいへん数多く、その出来栄えはすばらしく、歴代中でも一段とすぐれています。江戸中期にかかり、時代は社会全般に変革と整備が求められましたが、真伯はよくその責を全うし、近代に及ぶ新しい茶の湯を組成した逸材でしたが、53歳で亡くなりました。
七代 直斎堅叟(じきさいけんそう)
官休庵の中興と呼ばれます。この時代の要請から大きな変容を求められていた茶の湯は、多数の社中を率い、利休以来の伝来道具を茶の中心に据え、家元制度を調えることになったのです。
直斎が48歳のとき(安永元年・1772年)、官休庵が火災で焼失しました。2年後、一翁の百回忌に当たり、再建されました。また、15畳といわれる弘道庵を造ったのも直斎です。これまで表千家の残月亭を除けば、利休の茶の系統にあって、広間は4畳半以上、せいぜい8畳どまりであったのを、一挙に15畳に広めたのはまさに画期的なことでした。
八代 一啜斎休翁(いっとつさいきゅうおう)
父直斎の陰に隠れ、案外目立たないところがありますが、歴代のなかでも比較的長命で、何かと独自の活躍をした家元です。
手造の道具が多く、烏帽子棚、自在棚などの新しい趣向も造りだしています。なかでも、天明の大火によって焼失した直斎好の一方庵を復興するにあたり、構えを改めて「半宝庵」を新しく建てました。4畳半平面の中に、桝床を取り込み、中柱や台目切りの構えを付したりしています。
九代 好々斎仁翁(こうこうさいにんおう)
裏千家石翁宗室の三男で、一啜斎の養子になりましたが、父に先立って41歳の短い生涯でした。しかし、手造の茶碗も多く、ことに楽焼以外に瀬戸焼風の焼物がかなりあるのが特徴です。
十代 以心斎全道(いしんさいぜんどう)
表千家10代の吸江斎の弟で、久田家7代皓々斎の子です。幼時に病気で目を痛め、後に失明したため、好々斎夫人宗栄が木津宗詮の協力の元に、家元職を代行し、ひきつづき表千家10代の吸江斎に生まれた一指斎を養子とし、次代を継がせました。
十一代 一指斎一叟(いっしさいいっそう)
嘉永年間の大火で類焼のあと、明治維新前後の混乱期にぶつかり、苦しい時代でした。しかし、明治14年に茶室や庭の一部を再建し、明治中期以降の茶道復興の素地をつくりました。現存する祖堂(濤々軒)はこのときに新たに好まれた茶室です。
十二代 愈好斎聴松(ゆこうさいちょうしょう)
久田家10代玄乗斎(吸江斎の末男)の次男です。一指斎の養子となりましたが、父一指斎没後(明治31年)は表千家に養われていました。成人の後、中絶していた武者小路千家を再興しました。
大正15年には官休庵を改築し、昭和15年の利休居士350年忌に当たり弘道庵を再興しました。直斎以来の大広間15畳の間を露地の東に再現して、社中の多人数の参加に対応しました。愈好斎は自らの所論を発表したりして、茶道研究にも大いに活躍をしました。
十三代 有隣斎徳翁(うりんさいとくおう)
昭和16年に先代の娘婿として官休庵に入りました。昭和39年にはわが国初の茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校しました。昭和58年秋より、古稀を境として「徳翁」号を受け、平成元年隠居号「宗安」を襲名し、とかく安易に流れやすい現在茶道界にあって、断固、一人孤高を持する風を見せ、貴重な存在でありましたが、平成11年、逝去しました。
十四代 不徹斎宗守(ふてつさいそうしゅ)
有隣斎徳翁宗守と料理研究家 千澄子との間に生まれ、昭和49年後嗣号「宗屋」を襲名し、平成元年10月「不徹斎」の斎号を故福富雪底京都紫野大徳寺前管長より授与されました。同年12月、先代有隣斎が病のため「宗守」を襲名し、現在に至ります。
平成5年には現在の数寄屋茶室 起風軒を、平成17年には総黒漆塗りの茶室 仰文閣を建てました。
十五代 隨縁斎宗屋(ずいえんさいそうおく)
不徹斎宗守の長男として生まれました。平成15年4月後嗣号「宗屋」を襲名し、同年6月京都紫野大徳寺にて故福富雪底前管長より「隨縁斎」の斎号を授与されました。
平成19年に茶机「天遊卓」を好み、現代の生活様式に合わせた新しい形の立礼卓を生み出しました。
平成20年には文化庁文化交流使としてアメリカに渡り、1年間ニューヨークを拠点に茶の湯文化の普及に努めました。
茶道具はもとより日本美術史から古美術、現代アートにいたるまで造詣が深く、現在多方面の芸術家との交流を積極的に行い、活動の幅を広げています。
平成25年1月 京都府文化賞奨励賞を受賞しました。
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